H30年度馬場東春祭り

本年度も4月29日に馬場東地区の春祭りが挙行されました。
自治会主催で毎年行われています
 私も「いきいきサロン」に携わり始めてから参加してます。
馬場東町内挙げての恒例行事です、町内の各種団体が一致協力して
行うのです。
小生も会員の「しののめ会(老人会)も主力メンバーとして動きます、
婆ちゃん達が中心の「豚汁」「みたらし団子」、爺ちゃん達の
「餅つき」
これをするのですが前日から「買い出し」やら「材料の仕込み」などなど、皆で一緒にするのが大変であり結構楽しいものです。
又お祭りのメインイベントはやはり『お神輿』です、子供みこし・大人神輿
地区内を回ります。
もう一つのイベントは馬東鼓「太鼓演奏の披露です、かつては大人有志達が始めた太鼓も子供達も加わり当祭りの中心的な無くてならないひとつです。
そして祭りと云えば皆で頑張る「焼きそば」「焼き肉」「かき氷」そして「ジュース・ビール」どれも美味しいです。
そして「射的などゲーム」など、団体が協力しあい中学生も沢山運営に協力して実施する自治会の行う年最大級の行事です。

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馬場東いきいきサロン5月案内

岐阜県瑞穂市の『馬場東いきいきサロン』の来月の案内を致します。
瑞穂市に在住で65歳以上の方当日の来訪歓迎します。
来月は「健康体操」と講師による講義もあります。
又、今月の29日には瑞穂市郷土資料館なある、馬場公園にて
「馬場東自治会」主催の『春まつり』が挙行されます大人神輿や子供神輿もご町内に出ますよ。
又市内では有名な太鼓演奏(馬東鼓)の披露もあり、その他色々趣向あります。
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亡き母戦地での苦労への追憶

2015/8/13放映 NHKスペシャル『女たちの太平洋戦争~従軍看護婦 激戦地の記録』
見て想うことの追記を致します。
そうなんです、今生を受けている日本人のおそらく大半となる私達は「太平洋戦争」を実体験してはいません。
その時期多くの日本人男子は徴兵検査なるものを受け兵役を課せられた。
そして戦時に『赤紙』と呼ばれる「召集令状」を受け戦地に赴かれた方々が多くおられた、終戦でこのような事は無くなりましたが多くの本当に多くの方達が戦陣に倒れられ、又戦禍で亡くなられてみえます。
そしてその『赤紙』により戦地に赴いた女性も多くおられました、
それが『日本赤十字社の看護婦』いわゆる従軍看護婦です。
女性も看護婦さんの様な職は危険な戦地でも命を懸け必死に働き
人命を救っていた。

そして多くの日本赤十字社看護婦さんが命を落とされて見えます。
私の母もその日本赤十字社従軍看護婦でした幸い母は日本に帰国できました。
3年前NHKで放映された映像を見るまで自分の母もその一人と知ってはいましたが、びっくりしたのは今も「NHKオンデマンド」で見れる表題写真に母が出ていた事です。
私はそれ以来僕のパソコンの壁紙などにしているのですが、とうとう今年の終戦記念時期を最後にテレビ画面としては消えてしまう運命となりました。
それが悲しいので今回私の持っている母を含む関係写真の一部を掲載致します。
*いずれの写真も昭和16年4月16日以降日本赤十字社岐阜支部北支派遣救護班出征の女性です

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下段写真が当時の中国北支リンプン陸軍病院で軍医・看護婦診察風景(中央母)
カニしゃぶ用のむき身

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馬場東いきいきサロンについて

小生2015年4月に自治会主催、瑞穂市社会福祉協議会の後援で始めた
『馬場東いきいきサロン』に参加してます。
岐阜県瑞穂市には現在同じような「サロン」が30数団体あります。
その中では新しいサロンなのです、いわゆる
65歳以上の『爺さま&婆さま』集まりです。
創める際に当時一番若かった?! 事もあり(当時66歳)会計&広報を担いました。
参加者平均年齢は約75歳ほどで少し抵抗感は有ったのですが前年まで
会社人間で地域とのつながりを全く持っていませんでしたので家内にそれでは良くないからと
「薦められ」地域の老人会「しののめ会」に入会していた縁でサロン起ち上げに参加したのです。
最初は正直に云えばあまり乗り気では無かったのですが、毎月1回の参加をし毎回広報紙面を作っている内にのめり込んでしまいました。
2年目からは男の中で一人のみの60歳代だから? かは判りませんが会長の役目も担いこの四月から4年目に入り小生も今月で70歳になります。
想えば父は70代の終わり近くまで仕事に現役でしたから、彼岸へ逝けば『お前は仕事無くすのが早すぎる、もっと働かねば』と云われそうな気がします。
「サロン」の話に戻りますが、私たちの会は月1度第3火曜日開催と決め9時30分から11時30分迄と決めてます。
町内にある『瑞穂市郷土資料館』を借り、参加者は25人~35人で40人程の時もあります。
毎回市の歌を唄い、その後3曲(歌謡曲2曲・童謡唱歌1曲)を全員で仲間の1人のハーモニカ伴奏で歌います。
歌う曲目の紹介は元自治会長さんが楽しく明るく言ってくれとても盛り上がります、その後は毎回話し合いや、健康体操やレクゲーム等々、そして皆が真剣に拝聴する講演と毎回目先を変え「明るく・楽しく・元気よく・で健康的に生き活きと」そして究極の望みは「いずれの日にかピンピンコロリ」です。
現在参加常連の最高齢は89歳、みんなで90歳代後半を目指せたら良いな~ が私の願いです。

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ちなみに毎月こんな紙面を作り、「しののめ会員&自治会に配布し他所からの参加者にも配り参加者を
更に増やすよう努めてます。
この紙面で少し興味の出た方歓迎しますのでお越し下さいませ




陛下の御退位

 とうとう陛下の御退位が決まってきたようである。
先帝陛下の御苦労を見てこられ、
昭和天皇の後を同じように御苦労されて来られた
今上陛下、  私達国民の安寧を願い続けられて30年
ニュースによれば来年平成31年4月30日に御譲位なさる
との事である。
そして翌31年5月1日に改元皇太子殿下が新天皇として
御即位
されるとの事。
今上陛下は上皇陛下に、皇后陛下は上皇后陛下にとの
事である。
肩の荷を少し楽にして戴けるのは善きことのように想われる。
中には色々な事を言う輩もおるし、今後の御皇室に就いての
喧しき声も聞くがそれはともかく昨夏以来の我が国に執り大切な
事が決まってきたようである。
日本国と皇室の繁栄無くして国民の平穏な暮らしは有り得ないのですから。

教育界で最近目立つ問題点について

 昨年終盤にニュースで知った事ですが、福島県で被災した
方々が各県各地に避難され住んでおられる。
その子供達が子供の世界とは言う者の、「〇〇菌」などと
呼ばれ苦しんでいる子達のいるを知った。
そして先生までがその「〇〇菌」などと呼ぶ記事やNEWSを知った
その件で教育委員会が会見で『不適切な発言があった。』と詫びている。
この感覚が一番問題では無いか?
不適切の程度では無い事が教育委員会に理解出来ない方が
更に問題
なのだと思います。
又今回は神奈川県の某市 の教育長がそんな子供が百数十万円もの
お金を脅しとられた件で、本件が「イジメと限らない。」などと述べている
との事がでていた。
一体教育界は何をしているのであろうか、教育委員会の発言も
教育長の発言も教育者として何処に普通の見識を捨て去って
来たのだろう、
いや元々持ってないのだろうか?。
或る意味犯罪にも等しいような事柄をどう捉えているのだろう、
被害者がいれば当然加害者がいる訳で、加害者は児童生徒少年だから
責めすぎないよう…との配慮と取れなくは無いが。
この処置法や発言は被害児童生徒に生涯の心の傷を更に深く作る無配慮な
言葉と私は思うのですがいかがでしょうか。
そしてこれら教育長や委員会の人達にこそもう一度社会人としてのあるべき姿勢、
責任の所在やその取り方を教育すべきでは無いでしょうか。

自分達教育者の大甘な日常の見直しをね。


今日のNHKアナウンサーの緊急放送

今朝の緊急放送について賛否があるようだ。
私は賛否を云々する事は全くその要は無いと思う
と言うより あれが良かった
起床後まずテレビスイッチを入れるのが小生の日課である、あの放送で直ぐに
『何か緊急事態が起きてる』それが判った。
 私の住んでいる所には幸い何も無かったが、お互い『明日は我が身!!』である。
パット目覚めさせてくれ判断出来る、それだけで良い、良いのです。
批判は楽である、批判の為の『批判』は誰でも出来る

地元スーパー「S心」で再出発

M百貨店退職の後色々経験し、56歳の時地元岐阜中心のスーパーに勤めた。
「スーパーS心」
という安さ一番の13店舗ほどの岐阜・愛知のスーパーです。
総務経験者募集で採用されたが、各務原市の蘇原の店に配属された。
最初は毎日一般食品の店舗陳列、倉庫と売場の往復ばかりで帰宅するとフラフラの日々でした。
その内 夜間店長職とされた、ビックリしたのは入社半月程の頃、同時入社の人事経験者と
二人で銀行の夜間金庫へ売上金を持参する(現在はこの職責は無い)事を命じられた事だ。
  私も彼も未だ入社約2週の新人です、如何に前職が信用出来ても
数百万円もの大金なの、それを二人だけで毎日…
新人は新人なんですよ。『ビックリ ポン!!』
スーパーと言うのは…と思ったものです。
金額が違うとはいえお金です、M百貨店の金銭感覚・扱いとねえ……。
そのうち上司も変わり、閉店までの勤務は同じですが仕事が店の事務関係
全般と苦情処理に変化しました。
事務全般と云うと、
店の ①経理金銭管理
    ②納品伝票等整理管理 
    ③顧客苦情の処理 
    ④繁忙時のレジ応援 
    ⑤店員間のe.t.c 
でも毎日忙しくても それぞれの業務が今思うと結構楽しかった。
収入は百貨店に較べ大幅Downでも、その分責任も無く楽でした。
一部悪い社員もいたが、総じて真面目で明るい職場が多かった。
悪いのや不出来な処に目をやらなければ、男子も女子も職員は頑張って
たよ、あと経営力をアップさせる事が出来るなら永く続くと想う会社でした。
10年近く働かせて貰ったのでその辺りが良くなると……と願っています。
65歳迄勤めました。






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追憶④ M百貨店退職

百貨店退職迄の自分を書いてみたい。
己なりに職を定年まで全うしたいと不出来なりに懸命に30年間努めて来た会社を辞すのは辛いものでした。
平成元年に当時、和菓子売場責任者の職に取り組んでいた頃喘息という病を得ましたが、色々あっても「一病息災」でと努めていました。
そんな年末に激しい喘息咳で息継ぎが出来ず一時的ではありますが意識を失い倒れる事が数度あり、
医師から『1週間程入院すれば改善してくるから。』と言われ、それならば当時在籍した売場の
「1年で一番忙しい時期に間に合う」と判断し入院しました。
其れというのもそのとき私は怖かったのです、売場や駅のホームで発作が出、気絶でもしたら……と思うと。
そして入院した事で気の張りが切れてしまった様に「1週」どころか瓦解した
ように悪化し、結果出社出来たのは翌年の3月でした。
当然の事ながら仕事がまわらず売場は前任者に応援に来て貰って
凌いでいました。
職業人としては大きなマイナスで、9月の定期人事異動により職が変わりました。
それでもここにいた4年間は私にとってとても充実した時でもありました。
その後販売サービスの仕事で6階と7階を担当しました。
当時6階と7階には電化製品・家具・寝具があり、時計や宝飾品・呉服もありました。
いずれにせよ私が扱ったことのある品物はありませんでした、この中で販売員の
接客教育をするのも職責で、その為には自分の教育から心懸けねば成りませんでした。
己が大したものでなくその中で他者の教育などおこがましい、でも職務とあれば… 
と云う葛藤の日々でもありました。
その内2年程経過し、次の任地任務は通信販売部門でした。
3年半おりましたが面白いと云うか貴重な経験の出来た部署でした。
商品は百貨店内で扱う殆どの品種がありましたので楽しくて、お客様と接するのもこれまでと異なり
大半が電話での接客でした。
この電話応対の数が並みでない多くのお客様と毎日接する職です。 やり甲斐も大きく感じられる部門でした。
その次の職場は、コンピューター業務です。
パソコンが得意なので… と云う事で送り出して貰いました。
毎日店内の100台以上のPOSレジをまわり不具合あれば処理する生活です。
また丁度 Windows95が発売の時期で、この機に「全社員がパソコンにての業務にあたれる職場にする。」と云う事で全店のパソコン教育推進にも当たりました。
この目的で教本を作成した事が、その後の私自身に大きな自信を植えつけてくれました。
次の職場は、全店の物品購入や、社内印刷を一手に引き受ける業務です。
百貨店も物売りばかりで無く、社内で使う物を買いますし、印刷物の発注もします。
包装紙も買わねば等々…毎日購買も忙しい、そして自社で賄えるオフセット印刷も多くあります。
でもこの部署はそれをこなしているだけでは生産性がと云われます、まず始めたのは発注品の価格交渉。
いかに同じ品質の物を安く買うか? 従来されて無かった競争入札方式の取り入れ。
しかしこれをやり過ぎると今度は外商部門からクレームを貰います、「君が
価格を抑えすぎたから、逆に商品がその業者に買ってもらえん。
どうしてくれる云々」なんて事も良くありました。
適度な競争は難しいです、そして印刷物は出来る限りパソコンで原稿づくりし
オフセット印刷するように変えた。
後任者にも出来るようデータ化し、これで年間○億円程の経費削減させた。
でも阿呆な営業経験のみの人事重役は「たったそれだけか?」と云いおった。
売上の億はそこから諸経費諸費用を抜けば実益は僅かだわさ、だが
上手く経費削減すればほぼ利益Up。
この役職でこの程度か、あ〜あ。
そんな事もあった百貨店時代ですね。
そして53歳の春に退職致しました。



NHK紅白

紅白に綾瀨はるかさんが2度目の紅組司会だそうだ、良いねえ~。
爺さんは綾瀨さんが大河の主役の時に大好きになった、あれからもう2年経つ
あの可愛さと綺麗さ、そして明るく素直な印象がとても良い、多少天然でも
そこがまた可愛いと、私は思うのです。
それと白組の『井ノ原』氏、彼も毎朝見ていてとても好青年で爽やかである
有働アナウンサーも素晴らしい、昔21時からのNHKの夜の顔で見た頃から
時は随分経たが今やNHKの顔である。
出来れば民放に行く事など無く更に育って欲しい方です、かつて
加賀美 幸子アナウンサー(理事か理事待遇にまで昇進された方)が記憶に残っています。
あの方以上に立派になれる逸材だから。
今年も紅白は楽しみですね…、思えば小生は小学生の頃ラジオで聞いてた
時から60年余大晦日は「紅白」と「ゆく年くる年」で過ぎてきた。
母の年を越え、父の年との差も半分過ぎた。
晩年に少なくともさし掛かりかけてはいる、私も父母のように子から
あのようで有りたい。」と思われるようでいたい。
よしまた頑張ろう!

8/13のNHK放映『女たちの太平洋戦争~従軍看護婦 激戦地の記録』を見て想うこと

先の大戦の時、軍人・徴兵された兵隊さん達男性のみが戦地で戦った訳ではありません。
いわゆる「赤紙」召集令状は、
日赤の看護婦さん達にも出され多数『従軍看護婦』として戦地に赴かれたのです。
私の母もそうでした、中国大陸「志那」に赴いていた時があったそうです。
戦地でどのような事があったのかは私は聞いていません。
タイトル欄に記しました、NHKの放映で同期の方が出られ『辛かった、苦しかった記憶』
その一端を話されました。
母の葬儀の折に弔辞を読んで下さった方でした。
それから三十七回忌を済ませた今年この様なお話をテレビで聞く機会があろうとは…、
その上オンデマンドを観たらそこに私を終生かけて慈しんでくれた母の写真に出会おうとは
思いも寄らぬことで、私のような爺に成った者でも只ただ涙でした。
今年も終戦記念日に向け、戦後七十年の節目でもあり、国会でも、テレビ・新聞等々でも喧しき限りです。
かつて赤十字社の多くの女性が国内で、戦地でと、従軍看護婦として数万もの若い女性が崇高な心で働き、
そして多くの看護婦さん達も戦地に散られた。
日本に帰国出来た方達も言葉に言い表せぬ、辛く悲しくやるせない想いを持っておられた。
そう私達現在の日本人は戦地で非業の死を遂げられた幾百万にも及ぶ英霊、
空襲により斃れられた日本各地の方達のお蔭で今生きている。
まがりなりにも平和を享受し、過去の戦争の如何に愚かなるかを知り且つ知り抜いた者達の筈です。
そしてこの方達の想いに背いてまで再びの戦争など始めたい同胞などいるはずがない。
しかし残念ながら他国もそうである、そうである人達ばかりとは限りません。
現に今も地球上のある地域、他国では戦争紛争が起こっています。
私達日本人は過去に誤った戦争を為したからとて、他国が私達に何を云っても止むを得ないのでしょうか? 
私達の現在の憲法の第9条が崇高だから、他国は常に私達の国を侵す事は無いのでしょうか?
でもそのような考えが成り立つならば、このような憲法を創る国が出来ても良いのではないでしょうか?
成立してから68年を経た未だにそのような憲法を!と云う国は聞きません。
中国、韓国、ロシアでもそんな話はマスメディアから聞きません。
しかし国会でも国内いろんな処で「護憲」「憲法を守れ」の声が溢れている。
なぜでしょう?
日本国憲法の条文を何でも守りぬけば平和でいられるのでしょうか?
私はそれも大切ですが、それ以上に侵される心配の無いようにする事が、 
私達の子々孫々への遺産として為すべき大切な事と思っています。 

それは一部の方の言っているような戦争が出来るようにするとか、ましてや
徴兵制にするとか、そんな愚かな愚策ではあり得ない。
日本人として自信と誇りを持ちましょう、再度言いますが私達の国には、政府にも国会にも、今やそんな人々はいないでしょう。

日本人で先祖の誰も戦争で斃れた、戦火に焼かれた方を持たない家系がどれだけありましょうか?
この事を忘れたのでは先祖に申し訳立ちませんから、そう
私は想います。

マスコミによる愚かな社会煽動の先鋭化

昨今の新聞各紙、NHKを含むテレビ各局の大衆煽動。
国会における野党の在り方を見て想うのです。
古くは太平洋戦争時の報道姿勢。
安保条約締結時の国民大衆や若者達大半が反対していたかの様に
見せた報道姿勢。

学者達のさも現実がそのように成るかの如き頭脳論との混同的決めつけ。
我が日本国はこれらの誤りを今も繰り返している。
現在の政府政権が、さも国を『再度の戦争に駆り立てる』かの如き
印象を植えつけようと懸命で有る。

 私は少し冷静に視るべきと思う、
そも私達人間は「それほど迄愚かでは無い」と、日本人は
過去を本質的に反省しない民族では無い。
そして現在の人類は70年前以前の科学技術とはかけ離れた時代に住んでいる。
同じ日本の政権政党の人間を信じるより、近隣にもある今現在も続いている
『人を人と思わぬ』かの政権思想指導者や指導者達が牛耳っている国の方を
信じる愚かな報道姿勢が何を生み出す危険をいかに孕んでいる事か。
9条9条と騒ぐが、そんなものは他国には通用しないだろう。
一体我が国民はどこまで自国の憲法が他国の指導者をも束縛出来ると信じたいのだろうか。
現実に他国が他国を力でねじ伏せる行為をみせたらどうするのか。
ミサイルを1発撃たれてから対処の方法を協議するのですか?
何でも自分達の考え方を押しつける、そしていつも自分達が被害者であるを
装い続けるやり方をする『正義の士』を演じる人々。
とてもスイスの如き「永世中立国程」の気概はみてとれない。
彼らの無責任な『進歩的文化人気取り』『報道の正義という名の無責任』
このような幻想夢想家の多い国に何故日本は成り下がったのか?
など言ってもしょうが無い。
政府は更に毅然たる態度で臨んで欲しい…そう想うのです。

同期会に出ました

先夜M鉄百貨店の同期会に参加してきた。この3年間はM鉄名古屋駅前にある『かに家』さんでやってる、同期生の一人が退職後に
ここで今も現役で働いてるから何かと都合が良い。
幹事役も百貨店で今も勤務している同期が世話してくれてる。
年に一度とはいえ世話してくれる人は大変である。全員現役時代では
無いのだから!
参加率も良い、それにしても同期は良いものだ かつて同じ苦労をした者
同志だからね。
しばらく振りでも直昔に戻るネ、只互いに66歳(まだの者もいる)ともなると
若い頃と違い健康問題が話題になる傾向はあるね、それに残念ながら
もう既に彼岸にわたられた方もおられるし。
伴侶を…の方もおられるし。
 私も健康に気をつけ元気でできるだけ生きさせていただけるように
努めねばならぬ。
最近歩く努力はしているつもりでもまだまだ足りないようです、先日家で
高いところのものを取らねばならぬ事があったのですが椅子に乗って
と思うのですが中々乗れない… 何とか乗ったがかつてなら何の思いも無く
出来た事が苦労しないと出来ない。
情け無い何とも情け無い……もう一度己の生活を考え直さねばならないと
痛感させられました。
今のままの自分では、父母にあちらに行ってから顔向けがしにくい。
もっとまず歩く事から始めなければ。

ノーベル平和賞について

良かったね~

憲法9条が該当しなくて良かったと思う。 
ノーベル平和賞が今年はある種の人達の政治への思想信条の道具
ならなかった事は喜ばしいと思う。
最近ノーベル賞がある種政治の道具に成っている面が否めない。
今回の物理学賞の先生方のように、どの国の人々からも祝福される
そんな賞であって欲しい。

我が国の現行憲法は、確かに素晴らしい事が述べられてはいるが、
必ずしも国民皆がこれで良いと想っている訳では決して無い。
それは出処に異論が見られるからです
又、内容は理解できるが世界で通用しないと言うか現実離れしすぎて
発布されて70年に近づく今日でも一カ国も追随しない条文なのです。
理想が高いのは善いこと、只人間社会の有史以来争いごとは絶えた時は
無いのです。
口先で『護憲 護憲』を叫ぶより、紛争を『如何に防ぐか』『如何に早く解決するか』 そこに多くの『知恵』を注ぐ事がよりよいとしての活動ではないでしょうか。
我が國で言えば、領土の問題『尖閣』『竹島』『北方領土』など、
隣国では我が国詐欺師の発言に発し、朝日新聞の勉強不足、未検証が
絡む『慰安婦』問題。
人の世・欲望・國欲が絡むことは後を絶ちません。
煩悩を持たない人はほとんどいません。
だから私は、「憲法9条が該当」しなくて良かったと思うのです。

当たり前の事を言えぬ國、言いにくい國『日本』

当然の事を言えぬ國、言いにくい國
『日本』はそうなってはいないのか? 
昨日集団的自衛権の行使を容認する為の憲法解釈変更が閣議決定された。
そして昨夜からのTV・新聞はこの問題ばかりだ、
そしてその論調はいずれも大差なく批判的な内容ばかりである。
公正であるべきNHKも大差はない。
ではこれだけ批判的な各社は本当に正しいのだろうか
確かに私も含めた市民に、こと細かく説明があった訳では無い。
ただこれだけの期間喧騒があれば、それぞれ内容の大凡は皆知っているでしょう。
だからマスコミの誘導に乗り、踊らされ続けている人達も多く、デモ活動をしている人達もいる。
簡単に云えば、主に進歩的とされている人達は、戦後69年の時のあいだに
昨日述べた教育の成果セイカがこの結果と想うのです。
ああ恐ろしき、実に恐ろしき長期に亘る教育で『日本人』の多くの心を支配出来る。
当に教育の成果の恐ろしき図ですね
『総理』頑張ってください少なくとも貴方にはまだまだ支持者がいます。
当然の事を、どんどんいえる國『美しい日本再生』御願い致します。



集団的自衛権行使云々について

『集団的自衛権』認めるか否か?
この問題で国中が昨今騒がしい。
私も云わせて貰いたい! 本来ならこの件は憲法改正を行えば問題は無い、の ではあるが…
それが出来ない。
では何故それが出来ないのか? これを少し乱暴に決めつけるなら、
「現行憲法をひたすら守りたい」
事の是非に関わらず、「九条を守りたい」出来た経緯に関係なく
「只ひたすらに護憲」をしたい方達がいるからだ。
そして何故そのような人がこの國に増えたのか。 を問えば答えは簡単である。
69年前の終戦によりそれ迄押さえられてきた社会主義・共産主義が表面に出て来た、教育にまで出て来たからだ。
それまで押さえられてきた主義主張がさも何でも正しいかの如き風潮が
国内津々浦々にまではびこり蔓延(マンエン)した、
日教組はこうして表面にあふれ、
当時の私達団塊前後の世代から正しいあるべき教育をむしばみ
その我々世代がそれを受け継ぎ日本の教育を更にむしばんだ
この負の連鎖が、國にあるべき、國としてあるべき思考を破壊してきた。そもそも國が独立の気概なく、只平和呆けばかりで存立出来た試しは有史以来聞いた事が無い。世界史、日本史に関わらず凡そ長期間存立できた歴史は私は聞いた事が無い。
誰しも戦は好まない、誰しも戦で命を失いたくなぞ無い。
しかし冷静に周辺国を見ればどうだろう、眠りから覚めた
『中華人民共和国』「赤い中国」は、国民に日本への敵愾心を煽(アオ)りながら、
我が国の南部領海や地域の資源を空き在れば掠め取ろうと手をうちつつある。
韓国に至っては既に竹島を掠(カス)め取ったに等しい有様で、更に色々言いながら画策している。
北朝鮮に至っては言うまでも無し、社民党では前党名時代に「拉致」を否定した党首もいた。
こんな情け無い日本に成り下がったらせめて『集団的自衛権』くらいは
例え「解釈改憲と例え言われようとも」いざの時少ない宝刀でも
持たぬよりは良かろう。
本来なら『自主憲法制定』は当然の悲願ではあろうが。

追憶③ 父母のこと

父母の想いで

は僕が31歳の時帰ってくれない母となってしまった。
不出来の僕に常に優しい、それは息子への限りない溢れるほどの愛を注いでくれた母でした。
大正9年1月 岐阜県揖斐郡の地で、
父 金平 母 すゑの の第1子として生を享けました。
母は日本赤十字社の看護婦となり、中国にいた事もあると聞いてますが詳細は知りません。
岐阜に在った陸軍病院にいた時、衛生兵だった父と巡り会い愛を育みあったようです。
昭和19年に結婚、23年に私を産んでくれました。
岐阜の空襲の時にも、気丈に手術に望んでいて怯まなかったと母の葬儀の時同僚でいらした方から聞きました。
そんな母も、私や妹が怪我をしたりし、その血を見ると弱い弱い優しい母でした。
因みに僕が娘の逆まつげの治療の際、医者に娘が泣き叫んだりすると危険なので押さえているよう指示されても、その血を見たらフラフラとしてしまい
「お父さん、何をしてるの駄目でしょう!」と叱られてしまった、これも遺伝かも?と思うのです。
高校、大学と進みましたが、不出来で呼び出しを喰らう事もある息子がクラブ活動であちこちに行く時
いつも稲荷寿司、巻きずし、おむすびは本当に美味しかった。
今の家内の料理といい、私はずっと手料理に恵まれ続けている幸せ者だ。
そんな母が病を得て入院し手術を受けた、『癌であった』本人に伝えなかったが
母は感じていたのだ、退院すると不出来な息子を支えてくれる素晴らしい女性をみつけ結婚をはからってくれたのです。
又、私と違い出来は良いが彼氏のいなさそうな妹に相応しい立派な男性をみつけ幸多くなる結婚を。
そんな苦労をした後再発し入院手術後退院したものの思わしくなく54年5月に帰ってくれなくなってしまった。
唯一出来た孝行は52年9月に初孫見てもらえた事だった。
 僕には終生、無私の愛を与え続けてくれました。最期の時何故か一人立ちあう事が出来ました。
59歳の若さでした、不肖の私は何の孝行もせずでした。
そしてこの年10月に妹に、12月に我が家に共に娘が生まれた、2人は共に
母の生まれ変わりと思っています、
母さん『有り難う!』



は、大正7年3月 岐阜県稲葉郡(現・各務原市)で、
父 豊次郎 母 くにの第10子として生を享けました。
小学校卒業後、旧制岐阜中学校卒業し鉄道省(日本国有鉄道)に入り、機会を得て中央鉄道学園専門部に入学したものの、
召集令状をうけ衛生兵として勤めた時に母と出会った。
後年聞くところによれば時の母の俸給は父の数倍であったそうな。
父も中国大陸で戦渦を潜ったそうである。
その後専門部に戻る事が出来、卒業後は名古屋で総務畑で頑張り、
支社開発室長を経て名古屋駅長に就任。
当時本社指示で精魂傾け手懸けていた駅ビル(法改正解禁に向け手懸けた
国鉄最初のターミナルビル【テルミナ】建設)成就の為早期退職した。
このビルの成功がその後の全国での国鉄=JRグループによる駅ビルラッシュにつながっていく。
父は地元大垣市の要請を受け、大垣駅ビル(アピオ)開業にも尽力し、社長として働いた。
又他のJR駅ビル創業手助けにも尽力していた。
仕事に関しては妥協の無い常に一所懸命の人でした。
公職としては町の教育委員を約10年ほどしていた。
父についてはあまり記しても親自慢になるのでこのくらいにします。
息子が云うのも変だが私には到底まね出来ない業績の素晴らしい人でした。
 私が51歳、21世紀が目前の2000年2月末に帰らぬ人に、数えで83歳でした。
前年3月に曾孫を、息子 啓史の子を抱いてもらえたのは、母の他界から丁度20年後の事でした。
生前は色々反発もしたが後からのショックは不出来の小生には計り知れない大きなものでした。
まさに孝行したいときに親はなし、父母ともにそうでした。
誰しもそうかとは思いますが、今でも何かあると父に母に心で問いかけながら進む私です。

春の九州旅行に行ってきました~

ただいま~ の気分です!!

九州は楽しかったです、39年振りのリベンジは良かった。
=行程=
1日目 新幹線「ひかり」で新大阪経由、「さくら」で鹿児島中央へ、指宿まで行き 1泊
2日目 「指宿のたまて箱」で鹿児島中央へ、「きりしま」で宮崎まで行き 1泊
3日目 「にちりん」で大分経由、「ゆふ」で由布院まで行き 1泊
4日目 「ゆふ」で大分経由、「九州横断特急」で熊本へ、
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     「つばめ」で博多へ行き 1泊
5日目 「さくら」で広島へ、帰路「さくら」で新大阪乗換で「ひかり」で名古屋へ
     「しらさぎ」で岐阜帰着 の行程でした。
「フルムーン夫婦グリーンパス」でしたので初日の鹿児島中央から指宿が「快速」以外は全て「特急」で「グリーン車」のある列車は、新婚旅行以来のグリーンでした。
九州管内では1編成で半両のみがグリーン車でしたが、JR九州の乗務員さん達は皆さん一所懸命さがとても感じられ気持ちよく嬉しかった。
3日目の由布院駅では何とあの話題沸騰中『ななつ星』が停車中でした、
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思わず年も忘れ興奮しました。
九州の観光特急、今回は『指宿のたまて箱』、『九州横断特急』が乗れた。
『由布院の森』は計画段階では入れていたが、その編成が3月ダイヤ改正で丁度私達の時期のみ「その編成が定期検査修理で「特急 ゆふ」に変わってしまった。
その他の観光特急はいずれ機会があれば再リベンジとしましょう。
兎に角 『フルムーン夫婦グリーンパス』 これは良いよ、どうかJRグループ各社はエゴを通しすぎず、先人の知恵から生まれた国鉄時代からの人気のパスを消さないで欲しい。
現に旅行中にこのパスを利用した何組かのカップルや旅行会社ツアーとも出会ったのよ。

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【採点】
乗務員と電車&施設の採点は、九州のみ「優」、
西日本「良」、東海「可」と「不可」ですね。

例えば「駅のトイレ」九州の主な駅はトイレも綺麗で掃除も行き届いてる、

JR東海の「主要駅トイレ」あまり綺麗で無い、紙も使いたかったら買って使え的に成っている。

トイレなど施設に気を配れない会社は問題外です。


総てのJRグループが、九州の姿勢を真剣に見習えるなら『民営化後のある種弊害』を共に越えられる…かと。

父は、終生国鉄を愛し 中部支社・早期退職後も最初の駅ビル誕生に尽力していた。

これを想い敢えて厳しくJRに一言申したかった。


=宿泊=
指宿   『白水館』 一番良かったと思うなあ。
      施設の広さ、重厚感、併設美術館「薩摩伝承館」、
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      そして『食事』特別食を頼んだりもしてないが
      美味でしたし量も食べ切れ無かった。
      「砂むし温泉」は熱かったが、初経験で、これが有名な指宿の温泉と

      良い経験でした。


      そこで良かった 『白水館』のTVを拝借します(YOU Tubより)
      

由布院  『秀峰館』良い感じの宿でした、食事のランクを一段上げて依頼してい
たが美味しかったけど前述ほどでも無かった。


      温泉は良かったと思う。
宮崎   『JR九州ホテル宮崎』 新しい駅ビル内ホテルだけに綺麗で克つ最新

       の設備でした、ビジネスホテルとしてGoodだ、バイキングの朝食も「イ

      イネ!」だよ。
博多   『博多都ホテル』 駅から思ったより近かった。
      フロントで手続きを終えた後、『混雑したので、お部屋がジュニアスイ

      ートに成ってます。』と云われた。

      どうゆう意味かな? と思いつつ15階へ行った、

       なかなか部屋番号に着かないので???と思った。

      入り口を入ってビックリした、いわゆるスイートルームというものだ。

      私達庶民には縁遠い部屋でした。【応接セット+ツインベッド+バスト

      イレ】+【応接間(テレビ付き)      トイレが2個なんて我が家にもありません。

      (テレビ2台ならあるけど)。

      料金はそんな部屋に泊まる料金ではありません。良い経験しました。


今回の旅は家内と2人良い想い出になります。  「指宿のたまて箱」号と「九州横断特急」を味わい、
「さくら」「つばめ」「きりしま」「にちりん」「ゆふ」などの特急にも乗車出来ました。
「薩摩伝承館」で西郷隆盛大人への想いにふれ、数々の薩摩のお宝を間近に見、勇壮な桜島・由布岳・そして阿蘇を遠望できました。
妻も楽しんでくれたと幸せを感じた数日でしたよ。
九州の皆さん『ありがとうございました。』
安心して旅行できたのは、娘・優しい婿・可愛い孫のお陰でもあります。
    

台湾と云う国と思う地域についての私見

台湾国と私は思う地域について
私は台湾国に行った事がありません、今は正式には独立国として認められていない事も承知しています。
然し乍ら彼の地 彼の国の人達を僕は最も親しみを感じる事の出来る国と人達と思うのです。
何故なら近隣の国や地域の中で、日本が過去に同じ事をしてきた中で、
唯一常に日本を友人として扱ってくれています。

韓国は同盟関係に近い国ですが、近年の言動は友好国とはとても言えないものであります。
まして中国は国民に反日教育を云々と伝えられる国です、如何に貿易面で大切であろうとも利益の為だけで繋がっていたいと思えない国です。
利益の為のみに付き合いたく無いと 思うのです。
その点台湾はどうでしょう? かつて日本は私が学生時代に台湾を袖にしてまで中国と、共産党政権の国を採る行動に出たのです。
にも関わらず彼の国、彼の地の方達はそれよりも更に以前の日本の事を忘れずに今でもいてくれてます。
3年前の東北大震災のときも、とても多くのとても温かいそして優しさを、私たち以上の温かさで接してくれました。
このことを私はいつまでも忘れたくはないのです
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友誼に篤い国『台湾国』

追憶② 雛まつり

今日は「ひな祭り」3月3日である

かつて名古屋の某M百貨店に勤務していた頃の話である。
当百貨店には30年間勤務した。
最初は玩具売場配属で1年半いました。当時人気の商品をフロア中央にあるエスカレーターの前で、毎日大声張り上げ売っていた。 名古屋の電車駅上にある百貨店でもあり、当時名古屋の中では圧倒的多客の店でしたのでおもちゃは特に良く売れたのです。
入社2年目に人形売場に配属された、困ったのは男児玩具と異なり人形などというものにはとんと縁が無い。
縁などあったことが無い、しかし人形売場に配属されたからには「知らねばならぬ、人形が好きで無ければ。」そう思ったのであります。当時の私の頭で人形と云えば、日本人形・フランス人形であり、それらは皆高額なのです。
まだ安月給の身で買えません、そこでを着けたのが「こけし」中でも東北地方に伝わる『伝統こけし』でした。
宮城・福島・山形・岩手・青森・秋田など各県で工人さんが親から子へ、師匠から弟子へと伝わり続けているものです。これなら私にも集められる、私にも買える。……で集め続けて百数十本。
次が「おひなさま」「男児の五月節句」であります。売れれば高額ですし、日本人のDNAにも合致します。
頑張って勉強しましたよ、学生時代より勉強したくらい…かな?。
『おひなさま』の男雛 と 女雛 このお二人の本当に優しい顔立ち、心が芯からやすらぐ。
そして『おひなさま』が終わると、『5月飾り』男児に鎧・兜・武者人形そして鯉幟… 何となく「男の血が騒ぐ」
そんな季節の到来です。
「ああ!我日本人に生まれ来たりて幸いなり。」
この時期が近づくのはあの頃は一年でとても楽しみでしたね、七年担当させて貰いました、
1月から5月5日までが毎年一番楽しかった。
「計画をたて売場を造り、お客様の明るい笑顔に今日も出会い。」まさに二十代の充実した幸せな時期でした。
そしてその時期に恋もし、妻を娶ることも出来ましたしね。
自慢の最高の伴侶、未来永劫この女性しかいません。最高の妻。娶って現在までの39年間大海の中で翻弄され辛いこと、悲しみにうろたえ続けた事、子を得た歓びの時など他の人と同じように色々有りました、妻のおかげで今までこれました。

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この写真は昭和五十年(まだフサフサ頭髪の頃)撮影の小生です









それでこの歌をささげたい、とても綺麗な女性でした。 

ユーチューブからの拝借です。すいません 

                

春の旅行の事

2014/02

春の旅行の事

家内と新婚旅行以来の九州に4月に行く予定。

39年前JRが国鉄の時代に彼の地へ行っているので、似たコースでと思い、2014/02/14にJR‥ツアーズを訪れた。
フルムーン夫婦グリーンパス使用して行きたい旨伝えた。店員から返った答えで唖然とした。
「当社は『のぞみ』でのセットで組んでいるのでそのパスでは云々」
【フルムーンパスでは、新幹線で『のぞみ』『みずほ』は乗れない。】このパスは国鉄時代の人気商品… 無くす無くさないの議論の話を聞いたことは有ったが。
「新大阪から『さくら』で鹿児島中央駅まで。」と頼んだら、『うちは、ひかり なので新大阪から『さくら』では」ですと。
宮崎では「JR九州ホテル宮崎」で泊まりたい…には「そこは扱ってないから割高に云々」
「JR九州ホテルグループで他のホテルがお宅のパンフに載ってるから」には、「でもセットにしてないから」 
いったい何の為のJRグループか?と思う。もっと協力し合う姿勢がなければと思う。
同じJRグループでも客の依頼を無視し自社のセットでなければ‥とは。
同じJRでも北海道は今もがいている、理由はいろいろあろうが資金的な問題が根底にあろう。
分割民営化の時から雪など冬対策で苦しむは判っていたはず、かたやリニア開発を国の支援無しで出来る会社もある。でも別会社になったので助けはしない…? と見えるグループ会社。
傍目には助け合えよとも思えるが如何なりや。
悲しいねぇ、国鉄奉公にかけた父達が存命なら何と思うだろう、国鉄時代に身をていしていた幾万の先人が知ったらと思うと胸が痛い。今の日本は己も含め自己の利益のみを追いすぎている。

JR東海も考えるべきとするのは、私が古いからであろうか?
‥‥平家の公達にならぬを望む‥‥


追憶 ①

☆★☆★ 昔々数十年昔からを追憶 ① ☆★☆★

3歳に名古屋市東区に岐阜県より引越し、以来20年間名古屋市民でした。
この年11月に妹が生まれる前、祖母に手を引かれ母の里谷汲へ行ってました。
何故か解らないのですが、その時手を引かれて行く時の事が、それだけが鮮烈に残っているのです。
今でもそれが不思議と残っているのですよ。
閑話休題、すぐ東には国鉄中央西線があり悪い遊びで国鉄職員の父に大叱られもしました。
国鉄官舎のすぐ西に徳川美術館あり、遊び場でもありました。
美術館では館のおじさんに「坊主おいで」とよばれ、館内で『刀』を(真刀だよ)持たせて貰ったそんな事もありました、今程〔うるさい〕時代じゃ無かったんですよね。
国鉄官舎のなかにはまだ防空壕が壊されずに残ってましたよ、近くには「三菱重工」がありましたから。
空襲の痕跡がまだあちこちに残ってましたねぇ。
高学年に成った頃親父の自転車に横乗り出来るようになった時は「うれしかった~」大人にちかづいたような気がしたよ。
5年生の時、伊勢湾台風が襲来した。 家の欄間のガラスが割れ、屋根瓦は全部飛び、玄関も外に飛んで行った。
当時2年生だった妹が恐怖で歯が合わなくなった、私も本当はとても怖かったが、国鉄職員家族はこんな時父親は家におれないのだ。
たった一人の男子はこの時だけは頑張る あの頃はそんな生活だった。
冨士幼稚園・旭が丘小学校・桜ヶ丘中学校そして高校1年の時まで東区にいた。
高校大学とも千種区楠元町に学舎があったが今は共に別の地に移ってる。
東区の次は千種区の高見町に大学の3年まで住んだ、ここの官舎は今はない、近くに
振甫プールがあったなあ。
高校は私学で愛知高校から愛知学院大学。
高校生の頃は通学が大変でした、太った体で覚王山を自転車で登り、
すぐに城山まで下り坂。 毎日毎日上り下りでこの時に覚えたね、
「人生楽ありゃ苦もあるさ…」どっかで聞いたよね。
そういえば名古屋時代に住んでいた宿舎は3カ所共もう無くなっている、今通ってもここら辺に住んでたなって
淋しさを感じますネ。
懐かしい昭和二十年代から三十年代、四十年代の半ばまでの事です。
そして私は大学生の頃は毎日真面目に大学へはクラブがあるので通った。
仲間と創部した『古生物学研究会』という今考えるとエラク堅い名前を付けたものですがネ。
学業はおいて兎に角 部室には毎日顔を出してたよ。






そして四十年代半ば大学時代に家でこの人の曲を聞いた。
私でも歌声を聞きすごい良い歌、歌手の姿を何かで見て何と綺麗だろうと
驚嘆した覚えがあります。
イタリアの方で、名前はGigliola Cinquetti (ジリオラ チンクエッティ)さんです。
柄にも無くレコード買った覚えがあります。
☆★YouTube さんより拝借させて貰いました☆★
それから日本では「伊東ゆかり」さんがこの方の歌を歌ってた。

今日の爺さん

===風邪引きました
この火曜日に風邪ひきまして
どうやら胃腸風邪のきついのに罹ってしまったようです、ひどい下痢で昨日一昨日と何も食べれずです。
力が沸きませんので何ともならず、ひどい腹痛でござった。皆様もお気をつけあれ…
===やっと治りかけました
まさかと思ってましたが、生来の喰いじの卑しさが原因でした。
いわゆる食あたりだったのよトホホです、皆さんもご注意を…

===治ったので 鰻食べてきました最高に美味しかったです、やっぱり鰻は良いねえ。
焼けたうなぎの匂い、この薫りはたまりませんねえ…
元気が出ましたよ!! 大垣の老舗の『うなぎ屋』さんでした。昼の12時前に行きましたが、あっと云う間に店内は盛況。

日本人はやっぱ鰻好きなんだね

テレビについて

================☆☆☆TVの事

NHKの朝ドラをなぜか良く見る、高校1年の時に第一回「うず潮」うっすらと記憶にある。

「おはなはん」「旅路」はハッキリと覚えている。
何故その時間のテレビをと時間帯を考えると思うのだが覚えているのだ。
あと「雲のじゅうたん」「おしん」だね、「おしん」は殊に有名だから当然かも。
その後は「ちゅらさん」一寸子供っぽいが沖縄がらみで良かったね。

最近は仕事の都合でよく見てる、「カーネーション」「梅ちゃん先生」印象に残ったね、
「あまちゃん」好きだったね。いろんな考え方はあるけどNHKは結構安心して見てられる…僕はそう思ってるんです。

================☆☆☆NHKの大河ドラマの事

2014/02

これも最初の花の生涯から大体見ている。源義経、豊臣秀吉、信長に家康、戦国の武将達、忠臣蔵。
今回の大河もそうだが大体は男性主役の年だが、たまに女性主役が昨年のように有る。
綾瀬はるかさん、1年間可愛かった、でも視聴率は伸びなかったようだけど良いのよ。
綺麗な娘さんだよね、爺さんにはそれでよし。
若人には時代物は好まれないし、女性のバッチャン方も昔から見ないしネェ。

================☆☆☆